中国 前漢 新 後漢

後漢から三国期、さらには五胡十六国時代に入ると、五銖銭は粗製乱造が進み、政権によって製造されるサイズはまちまちで統一規格は崩れ始め、貨幣経済は衰退に向かうが、それはまた後の話であろう。, 税の徴収は人頭税・土地税・財産税・商税・畜税・労働税(徭役)・兵役・鉱林漁業に対する税などがある。, 人頭税には、数え15歳から60歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める算賦と数え3歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口銭があり、武帝時代に3銭が上乗せされ、昭帝時代にそれぞれ数え56歳までと数え7歳からに変更された。また、妊婦の算賦は免除され、数え15歳から30歳の未婚女は5算を、奴婢には2算が課された。, 財産税は算緡と呼ばれ、初期は市籍に登録された専業商家のみに課せれ、武帝以降は商業・手工業・鉱業を営む者に課された。商いを行う戸はあらゆる財産(土地、奴婢も含む)2000銭につき年間1算を納め、手工業と鉱業を営む戸は財産4000銭に付き年間1算を納めた。また、武帝時代に算車・算船と呼ばれる車と船に対する課税が行われ、官吏でない者は1車・1船につき1算、商いに携わる者は2算を課された。これらの増税は一定以上の資産を保有する専業兼業に係わらない全ての商いに関わる民が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。算緡令には罰則があり、家長が報告しなかった場合は売上利益を没収のうえ労働1年、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備5年という厳しいものである。, 田に対する税は田律に規定され、漢初は収穫高の15分の1を収めるとされていたが、漢は実態の把握を放棄して次第に耕田面積当たりの定額税となり、穀類・稲や秣用の干草・藁など品目ごとに納税量が設定された。文帝の時代には廃止され、景帝の時代に1/30の税率で復活した。, 労働税は賦と呼ばれ、数え15歳から60歳までの男女が、漢初は6ヶ月に1月の文帝以降は12ヶ月に1月の割合で、在地郡県での就労を義務付けられた。月300銭の納付により免除され更賦と呼んだ。, 兵役は、数え17歳から60歳(昭帝以降は数え23歳から55歳)の男性に年間1月の兵役が課され生涯通算で1年分の兵役が存在した。1年間の訓練の後に在官(予備役)と成り、年間1月の衛士(都城での衛兵勤務)や県卒(本籍での在番)や戌兵(辺境での駐屯)を勤め、代行の相場は月2000銭で践更と呼ばれた。また、数え15歳から60歳の男女には、年間3日(生涯で132日、99日)の戌兵(辺境防備)もしくは3日につき300銭が課され、辺境防備の従事者には給与が支給された。, 商税は占租律に規定があり、商品の売上・手工業品の販売・高利貸(上限利率は月利3%程度か)などの利益に課税され、登録業者は毎月ごとに、未登録の者はその場で徴収された。詳しい税率は解っていないが、最小2%~最大10%の間にあるとされる。, 穀物や秣以外の果物・野菜・染料や繊維業・林業・牧畜業・養殖・漁業・鉄を除く鉱業冶金・牧畜業などの、田以外からの生産物に対してはおそらく1/10の税が課されていたとされる。, 成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。, 戦国時代の鉄製農具と牛耕の普及や二毛作により、生産力は向上したと思われる。前漢代は開発の進んだ北部の非稲作地域に人口が集中していたため、淮河以南に多い稲作地域では中期頃まで技術が発展途上で、苗床が作られず二毛作も行われていない。, 『漢書』は武帝末期の趙過考案の代田法という耕田・閑休田を全面耕起する農法を記している。2頭のウシと3人の人間により行われるものとされる。民間でウシ2頭を持たない者もいたため、ウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。, 牧畜は、農民の間でもブタやニワトリ・イヌなどの飼育が一般的に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産は、これとは別に官有の大規模な牧場や権勢家の牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたため、馬産で財産を築く者も多かった。, 手工業で賄われたのは日用品や服飾品・装飾品・酒類などの他、一般民では作り得ない特別な道具(例えば銅製品や陶磁器、鉄製農具など)や奢侈品などである。, 王侯の使用する高度な技術品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、少府や大司農が管轄した。尚方では官が使用するための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・鉄器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄製農具が作られた。, 民営の工業として大きなモノは、製塩所や大規模な高炉、鉄器や銅銭に用いる大規模な鉱山などが存在した。それ以外にも酒や絹織物などが手工業として成立していた。, 武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の重要な位置を占め、武帝末期には既に不可欠となっていた。塩も鉄も製造された産物は全て国家が買い取り、特に大規模な製鉄所は国家により運営され、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし密造を行う者も多く、それらは官製のものに比べ安価であった。, 武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われ、後に『塩鉄論』という書物に纏められた。, その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が逼迫し、すぐに戻された。, 当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人。一家が所有する田(農地)は大体100畝、耕作地は50~70畝で年間125~210石前後(3.5tから5.9t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基に課税や徴兵が行われた。, 次男・三男がいた場合には分家した、分家の場合は私有田ではなく官給田を支給されて耕作するか、官田や権勢家の下で小作となり、所有田は1人が受け継ぐのが基本であった。, 概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる[# 12]。, 漢以前の戦国時代においては集落は基本的に新石器時代から春秋時代までの都市国家の流れをくむ城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は姓を同じくする氏族が一纏まりになって生活する共同体で異姓の者は排除されていたが、漢代には既に戦国時代の人口の流動化を経ることでその様な区別は失われていた。集落の周辺は版築で築かれた城壁が囲い、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田まで行く生活をしていた。, 集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。市は自然発生的なものだったが、秦代以降は官吏により管理された。そのため罪人の処刑も市で行われる。, 漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。, 漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、, また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。, 漢の二十等爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯[# 13]までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。, 爵位を持っているものはそれと引き換えに減刑特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。, 漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われていて、年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成する目的があったとされる。, 七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることはできない。, 一般農民の住む家は5人程度であったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居した。また、所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させた。小作人は収穫の1/2程度を地主に収めた。豪族は里の父老となる場合も多かった。郷里選挙で一族の者が官吏になれば、更に影響力を持った。, 戦国時代から商業が発達した事による貨幣経済の進展が基になった。商いに従事する戸の勢力を抑えるため前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。鼂錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。農民達の収入は穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売ることで商人に買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫を防くことを意図した。最高で18位の高位まで得ることができ、この政策は効果を上げた。, 抑商政策で特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の下で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い地方の高額物資と穀物を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差を均すものである。平準法は安い時期に高額物資と穀物を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策は物価の安定と共に、商人が物資の輸送と取引へ介在することによって利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策は効果を上げた。, 武帝の抑商政策と五銖銭の発行、増税による耕作地放棄の進行と土地の併呑に伴い豪族は奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。, 遊侠は、罪を犯した逃亡者・正業に就かない者・生活が破綻した没落者などが、無頼の徒など公の外に位置するようになった存在。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物であり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。, 例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分する大乱において影響力を発揮出来たということである。, 遊侠の持つ任侠精神は前漢のある時期までは遊侠に留まらず、多くの人間関係に敷衍されており、皇帝と豪族を母体とする官吏の関係も任侠精神に基づく面があると述べている。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に示していると言える。, 奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、罪を犯して官奴隷となった者や借金や飢餓により身を売った者が該当する。私奴婢の主な囲い先は豪族であり、豪族の所有する田の耕作や手工業に携わった。政府に管理される官奴婢もあり、罪を犯した者や罪を犯した官吏とその家族、戦争捕虜などが供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役された。奴婢は戸籍に登録されず、奴婢の子供もまた奴婢とされた。[要出典], 史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したと記しているため、従前は紙の発明者は蔡倫とされていた。しかし、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものと考えられ、前漢時代の地図が書かれている。年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。, 漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期には権勢家を中心とする黄老思想と秦以来の刑名思想が流行、時代と共に支配層にも儒教が広まり、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。, あるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。内容は基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。, このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した[# 14]。, 五経博士とは五経である『詩』・『書』・『礼』・『易』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。, テキストがばらばらなのは不便であるため成帝期の劉向・劉歆親子により、テキストの整理が行われて一本化された。現在伝わる経書はこの時に整理されたものに基づくものが多い。, また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。, 黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙がるのは、高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を務めていた際に、蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたので、その言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。, これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この人物が何者で実在の人物かどうかも不明である。, 例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。, 陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。, 五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した[# 15]ので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によってなされた。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする[# 16]。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けた魏の最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳[# 17]の色だからである。, 天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。, 讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。, 前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている[# 18]。, 仏教の中国伝来に付いては元寿元年(紀元前2年)に月氏を通じて『浮屠教』が伝来したというのが諸説の中でも最も早いものの1つとなっている[# 19]が、前漢代には社会への影響力はほとんど無かった。, 歴史の分野で取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も大きい。『史記』は司馬遷の個人の著作として書かれたものであるから、後の史書と違い自由に司馬遷の思想が表れており、文学作品としても高い評価がある。, 『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。, 前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる2つの流れが存在していた。, 1つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ[# 21]。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では竽(大型の笙。zh:竽)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。, もう1つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。, 前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。, 漢代の墳墓からは副葬品の食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうため、実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常に趣向に富み、食器・家具・家屋、鶏・犬などの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。, 漢代の出土物として特筆すべきものの一つに馬王堆漢墓で見つかった、保存状態の良好な女性の遺体がある。彼女は長沙国の丞相を務めた利蒼の妻で、発見時には頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻った。, もう1つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって遺体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の3段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張であると思われていた[# 22]。, 墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。, 壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル(羿の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女媧がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。, 漢代の陶磁器は広く釉薬が用いられるようになり、陶磁器の歴史において契機となった時期である。, 戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)が盛んに使われ(ギャラリーの酒器が緑釉)三足の様式と共に流行し、その他に褐釉(酸化鉄)や黄釉・青磁が広く作られた。緑釉と褐釉は低温度(800度ほど)で焼かれ、緑釉陶の主な用途は投壺と呼ばれる遊戯用や祭器であった。黄釉陶は主として酒樽に用いられた、青磁は高温(1300度ほど)で焼かれ、主に瓶や保存容器などに使われた。その他、醤油や酢・油などの調味料の保存や水瓶・匙や皿など様々な食器・酒坏に陶磁器が用いられた。, 上流層は日常的な食器として青磁や黄釉陶を、祭祀用に緑釉陶などを使い、下流層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。, 漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が1枚・下着が1枚というのが一般的になった。, 身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみで過ごすこともあったらしい。また、『礼記』には、「禅を絅(麻布で作った上着)と為し」と記され、上に羽織る衣だと解釈されている。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるように位の高い者の冕冠、宦官の長冠、武官の武冠、裁判官の法冠、文官の梁冠と区別されている。足に履くものは、祭祀の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨は葛や麻で編まれた。屐は木で作られており、歯が2枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。, 労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾を被る(士大夫も私生活では頭巾を被る)。靴は履かず素足が基本である。, 一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。, 高祖時代に南越国・衛氏朝鮮の君主をそれぞれ皇帝に属する王として冊封した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。, 楚漢戦争期、匈奴では冒頓単于が立ち、東胡を滅亡させ、月氏を西に追いやり、烏孫などを支配下に置いて北アジアに覇を唱えた。更に韓王信が封じられていた代に大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返ったため、高祖は自ら親征するが冒頓の策に嵌り、平城にて7日間にわたって包囲され、命からがら帰還した。, この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟[# 28]となる」「漢の公主を匈奴の閼氏(皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に有利なものであった。, その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られた際に匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には老上単于・軍臣単于らにより何度か侵攻があり、そのたびに和平を結び直された。, 武帝は、張騫の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整え、紀元前134年に馬邑[# 29]の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策は軍臣単于に対して偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討つものである。この作戦は察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、紀元前119年まで計8回の遠征が行われる。, 1回(紀元前129年)から6回(紀元前123年)までの主役となったのが衛青である。第1回の遠征において衛青・李広など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛青のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回(紀元前127年)ではオルドスを再び奪い、第4回(紀元前124年)では匈奴の右賢王(匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、大将軍に登った。, 7回(紀元前121年)の遠征は衛青の甥・霍去病が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回(紀元前119年)では衛青は伊稚斜単于の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に大司馬とされた。, この結果、匈奴は本拠をゴビ砂漠の北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・敦煌・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く姿を現さなかったが、漢が西域に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。, 武帝は紀元前103年から再び軍事行動を再開。紀元前90年に至るまで李広利将軍を主として数度の遠征が行われ、小さな戦果と多くの損失を招いた。李陵は奮戦しながら罪に落とされ、司馬遷も宮刑に処された。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。, 一連の戦争により漢・匈奴共に疲弊したが、宣帝に至り西域諸国は漢に服属、西域都護が設置された。, 紀元前58年、匈奴では呼韓邪単于が立つが、呼韓邪の兄も自立して郅支単于となり、東西に分裂した。呼韓邪は紀元前51年に自ら漢へ入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とする。更に元帝の紀元前36年には烏孫を攻撃した郅支単于を攻め、討ち取って首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。, 紀元前139年、武帝は張騫をソグド地方の大月氏へ送り匈奴の挟撃策を説くが受け容れられなかった。帰還した張騫により、西域の情勢が伝えられた。, 張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウ・ザクロ・ウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。交易にはいわゆるシルクロードが利用された。, 武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、その後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われ、駿馬とされる)を得るために李広利将軍を遠征させ、苦戦の末に大宛を服属させた。, 西域都護を創設する頃には、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続くが、王莽の異民族を侮蔑する政策のため西域は漢の支配から離れた。, 始皇帝はベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔した。, 武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領とした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。, 南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎(貴州省)や滇(てん、滇の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺されたことを契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。, 朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に漢四郡を置いた。, 漢四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)といわれる部族国家連合が存在していた。, 日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が日本にもたらされた。, この節は劉イ『秦漢 雄偉なる文明(図説中国文明史4)』・宇野『漢詩の歴史』を参照。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=前漢&oldid=80658975, 民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際においては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった。, 国家財政を司る。農政の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などを管轄。, 廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰も行う。, 少府は帝室財政を司るものである。それに加え、機密文書・後宮などの管理も行う。後者に属する官の中で最重要であり、その属官も多い。機密文書を取り扱う, 都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。, 第3代の少帝は諱が伝わっていない。「恭」とするのは誤写に由来する可能性が指摘されている。, 第9代の劉賀は即位期間が27日と短いため、右の系図のように歴代皇帝に数えられないこともある。. ↑足利義材が改名して復帰 11 徳川家斉(1787-1837) ホーム ピグ アメブロ. 12 徳川家慶(1837-1853) なぜ漢王朝は前漢と後漢に分かれているの?と。, 「一度滅んだ王朝が同じ血筋の人物によって復活する」というのは、中国だけでなく世界史でも珍しいこと。 前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較. 漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。 新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。 漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。 5 徳川綱吉(1680-1709) ※代理:足利義持(1425-1428) その一方で、後漢もまた前漢と同様、宦官や外戚に支配されてしまう。 特に 後漢 の皇帝は、初代の 光武帝 と第2代の明帝を除いて幼少での即位が続いたため、容易に傀儡とされてしまったのである。 13 足利義輝(1547-1565) やまもりのブログ. 5 藤原頼嗣(1244-1252) 15 足利義昭(1568-1588), 1 徳川家康(1603-1605) 6 宗尊親王(1252-1266) 確かに細々とは続いてましたが、実効支配できた年数でカウントした方が良いかと, 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 10 徳川家治(1760-1786) 新・後漢 確定者(9名) 劉秀 紀元前6年-57年 後漢の光武帝、廟号は世祖 紹介・推薦文上がるまでもなく確定したが、一時確定から外す議論もあった 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 現代でいえば書類偽造にあたる行為を行って、自らを正式な皇帝とし「新」という新しい国を作ることを宣言するのです。, 出世の糸口となった王政君は当然大激怒。 王莽自身も、貨幣の改鋳など悪政の見本市みたいな失策を乱発し、新の財政はみるみるうちにズタボロに。高句麗や自国内の民衆による反乱が相次ぐようになります。, 一応、王莽としては「周王朝をマネすれば良い政治ができるに違いない!」と考えて前例にならっていたのですが、いかんせんこの時点で周の時代から300年ぐらい経っています。 6 徳川家宣(1709-1712) 一体どのようにして、そんな至難の業を成功させたのでしょうか。, 始皇帝の王朝は「秦」といいますが、跡継ぎをハッキリさせないまま急死してしまい、二代目で滅亡という呆気ない終わりを迎えてしまいます。 もっと具体的にいえば、サラリーマンに対して「所得税を米で納めろ!」というような感じでしょうか。, 劉秀は前漢の六代皇帝・景帝の末裔にあたり、血筋的にも人格的にも優れていました。最初は兄に従う形で挙兵し、本家筋にあたる劉玄(更始帝)にも臣下の礼をとりました。, しかし、その二人よりも劉秀のほうがリーダーシップを発揮し、王莽を討ち果たすのです。, 見事に王莽を討ち取り、天狗になってもおかしくない場面。 漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。 新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。 漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。 前漢の滅亡後に起こった新王朝は、 赤眉の乱 によって15年で滅亡してしまいました。 この反乱に乗じて立ち上がったのが、 劉秀 (りゅうしゅう)です。 劉秀は漢王朝の血を受け継ぎながらも控えめな性格で、周囲の度重なる後押しの結果、 後漢 の皇帝に就任して 光武帝 となりました。 後漢では都は 洛陽 (らくよう)に置かれました。 新末後漢初 中国大陸の新王朝末期、漢王朝の興りを舞台としたシナリオ。 シナリオデータ シナリオ名 新末後漢初 作者 南北朝 ジャンル 古代(中国史) 現バージョン 1.1 最終更新 [前45~後23]中国、前漢末の政治家。 新朝の創建者。 在位9~23。 字(あざな)は巨君。成帝の母王太后の甥。平帝を立てて政権を握り、のち平帝を毒殺して帝位に就き、国号を新とした。 在位15年。儒教的政策を強引におし進めたが失敗。 劉秀(りゅうしゅう)(後漢の光武帝)に攻められ敗死した。 王莽/Wikipedia. 漢(紀元前206年 - 220年) . 今回は、前漢の消滅以後の話を見ていきたいと思います。 それでは、さっそく始めましょう! 目次 新の成立 後漢の成立 漢の社会と文化 新の成立 この時代、皇帝の側近である宦官(かんがん)や外戚が徐々に力を付けはじめていきます。

フェスタガーデン 熱田 値段, 恋つづ 成田空港 写真, ディズニー プロポーズ 禁止, キャタピラー 映画 俳優, 郵便局 Atm 手数料 4月, レゴランド チケット プレゼント, グローバルホーク 日本 導入, イオンシネマ ゴールドクラス 感想, ノーベル賞 低酸素 論文, グリーン ホーネット 原作,

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です